◎大きな信心とは、まずは自分の信心の小ささを悟って、そこからお育てを頂かねば大きくなれない。日常生活の中に、私どもの信心が段々豊かに大きくなっていく稽古の材料というのがあるから、それに取り組んでいかなければ。
%1久富正義氏、自分の信心の小さいことを悟る。
%2秋永友良氏の大きく育っていっている信心内容。
%3甘木の平田さんが牢屋に入っているお夢から思うこと。
%U「我が心」と「和賀心」の両面の検証。
%V
昭和四十三年七月七日 朝の御理解
X御理解第二十五節「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。大きな信心と。大きな信心というのは、金光様のご信心ぐらい大きな信心はなかろうと。何故かというと、天地が対象ですから。いや相手になってくださるのですから、私どもの信心もやはり大きな信心をさしてもらう。かといって、初めから大きいと言うてもね、例えば、お育てを頂かなければ大きくはなれません、ね。小さいものが段々大きくなっていく。ですから、お育てを頂かなければ大きくはなれない。だから、大きな信心を願いとさせてもらう。その大きく育てて頂くところのおかげを頂かなければならん。それには、「迷い信心ではいけぬ。一心と定めい」と、こうここにありますね。
「迷い信心ではいけぬ。一心と定めい」。一心に定めなければなりません。大きな信心ということについても、いろいろに言われます。ね、けれどもどんなに大きな信心というか、神様を頂いておりましても、こちらの願いが小さかったら、その拝んでおる神様までも小さくしてしまう訳ですね。だから、小さくするも大きくするも、結局自分たちの信心いかんによることなんです。
そこで、大きな信心をさせて頂くための修行なり、または工夫なりがいるわけです。様々なことに直面する時にですね、自分の心は小さいなあ、自分の信心は小さいなあと思うことがあります、ね。そこでまずその自分自身の信心のちいささ、こまいということをですね、まず知らなければいけません。自分の信心が小さいなあ、と。
%1昨日、企画の方たちの委員会でございましたが、久富正義さんが話しておられる中に、こんなことを言っております。ああして大きな事業をしておりますから、例えば市役なら市役所の仕事を致します。そうすると、お金が、まあいうなら月末なら月末に入ってくるようになっている。こちらにもやっぱり予算がある。さあ二十八日になり、二十九日になってもお金がさがってこない。そうすると、まあ市役所の方へ私の方のお金は、まだ貰えんだろうかというて、請求かたがた尋ねに行くわけです。そうすると、先方の方では、もう二、三日前送りましたよ、とこういうような時ですね、もうそういう時に、ほんとに神様相すいませんと思わなければおられません、とこう言うのである。
%1神様は、ちゃんとこっちがバタバタせんでも手配をしてござるとじゃん。いわゆる、こちらの信心が、心が小さいばっかりに、ね。それをまあだじゃろかと言うて、尋ねげえ行くという、ね。そういう時に正義さんが、自分の信心の小さいことを感じておられる訳ですね。そして、感じておると同時に、神様あいすみません、この様な働きを頂いておるにもかかわらず、私が信心が小さいばっかりに、ね。それは普通から言えば、なんでもないたり前の話なんです。相手は市役所、月末になっても金はさがってこん。それであれはどげんなっとうじゃろうか、と言うて聞く訳ですよ。ね、それはもう一日、二日前ちゃんと送金してありますよ、と。「ああそうですか」と、たったそれだけの話なんですよね。
%1ところが、信心させて頂く者はね、そこんところにです、ほんとに神様あいすみませんと。神様はこの様にして働いて下さっておるのに、こちらの信心が、ね、小さいばっかりに、それを一遍確かめなければ安心ができん。そこんところに神様相すみませんと同時に自分の信心の小さいことを実感する、と。
%1私が申しました、「それがね、それでいいようにあるけれどもね、それがね、次のおかげに響いてくる」と私が申しました。そういう事をしよると、もう絶対です。そういう所をですね、やはり神様を信じて疑わないというかね、よし、下がってこんなら下がってこん所にですね、お金が入ってこんなら、入ってこん所に神様が何とかご都合は下さるんだ、という確信ですよ、問題は。下がってこんなら、下がってこんでそこに立ち行く道は、神様が必ず開いて下さるんだ。下がってこん時は、下がってこん時という、その肚なんです。ですから、そこでは普通からいうなら、尋ねるのが当たり前であり、また、尋ねてもそれは何でもないことなんだけれども、これが信心になってくるとです、非常に、その次のおかげに響いてくるんですね。信じておるけれども、不安であるという、その不安であるということが響いてくるんです。
%2先日の壮年部会の時に、秋永先生が話しておられます。いつもよりも大きな金額の手形があった。それがこちらの方の手落ちで何十万か余分に払わねばならない。大体八月に払えばよいものを、こちらの手落ちで七月に払うようにしておったと。それで、そのお金を持って行ったところが、それだけお金が足りないわけなんです。それこそ目ん玉に指突っ込むごともう何十万というお金がですね、右から左にあるはずがないですから。そういう時にですね、例えば、なら幾ら幾ら集金せんならんからというて、集金に回りながら、ふっと自分の心の中に、これはおかげ頂きっらんとじゃなかろうか、とね。
%2丁度お願いしてあったとだけは、お取次ぎ頂いてあっただけは、ね、十万ばっかりオーバーするぐらいに集金はやっとるから、もう今日は大丈夫だと思うとった。ところが、実際銀行に行ったところが、まあ三十万足らんと、こう言われた。それは八月に払うとじゃん。ところが、実際に七月に払いますというて、判押してあるもんだから、こっちが間違い。その金策に、集金に回る時にですね、ふっと自分の心の中によぎるもの、ね。おかげ頂きるじゃろうか、おかげ頂きっらんかも知れん、というようなもの。そういう時に教えが閃いてくる。
%2昨日頂いた御理解の中にも、ね、自分で自分の心を犯しよる。こういう事が、例えば、おかげ頂っきるじゃろうか、と思う不安な心が自分で自分の心を犯しよる。犯すという字は、犯行の犯ですよね。犯罪の犯です。ね、その次の瞬間にはです、よし、それが出来なくっても、集金がよらなくても、よるよらんは、よるじゃろか、よらんじゃろかという不安じゃなくて、よらなくても、そん時にはです、こちらの肚が出来とる。いわば、信心の度胸がすわる。そこには自分の心を犯すこともなからなければ、不安な思いもなくなる。「信心の有難さとは、ここです」と言うて話しておられます、ね。
%2もうその心に肚がすわるというか、それがもう既に次のおかげになってくる。おかげで時間にきちっと間に合うようにお繰り合わせを頂いたという、ま、いうならおかげ話なんですけれども,ただそのお繰り合わせを頂いた、というおかげ話の中にです、秋永先生の心の中に、ね、段々大きなものが育っていきよるわけなんです。
%V大きな信心というて、ね、天下国家の事を願いよる、ね、将来はひとつ億万長者にして貰いたい。大きな御用にもたちたい。そういう例えば夢のような大きな事を願っておるという事がです、私は大きな信心ではないと思う。
%V大きな信心とは、自分の心が日々の信心の生活の中から、お育てを頂きながら、ね、今の久富さんのお話、秋永先生のお話から、日々そういうような生活の中から、自分の信心の小ささ加減を悟らせてもろうたり、このような事で自分の心を犯していきよる、というような事を分からしてもろうて、次の瞬間には、もう心が大きくなっている、ね。言わばどん肚がすわっている。どん肚が大きくなっていきよる。私は大きな信心というてもね、そういう稽古が日々できてこそ、私は大きくなると思う。
%V大きな事ばっかり願う、大きな事願わにゃ、というて日々のたとえばそういう信心修行が、例えば信心に対するところの反省というかね、例えばなら、自分の言うておる事、しておる事に対する、例えば、正義さんの場合は反省になっておるわけですね。ほんとに、神様がちゃんと、こちらがカタガタせんでも心配せんでも、月末にはちゃんとこちらに着くように発送して下さりよるのに、こちらの心がこまいもんじゃから、それを一遍電話で尋ねたり、わざわざ行って尋ねておる自分がです、ほんとに小さいなあ、そして、思うことは神様相すいませんということになってきておるわけなんです。
%Vそして、そこに分からしてもらうのは、それはいいけれどもです、信じ難いのは当たり前の事だけれども、当たり前の事の中に自分の心の小ささ加減を分からしてもろうて、大きくして、しかもそれがね、次のおかげに響いてくるという事が分かったらです、例えば、次にはもうバタバタされんて。バタバタされんどころか、そういうならば市役所の方へ行かずに、ね、合楽の方へ向かって来なければいけない。神様の方へ向かっていかなければいけない。それが不安であるなら、心配であるならばです、あっちへバタバタこっちへバタバタするような事ではですね、何時まで経っても信心は大きくならんです。これを繰り返しておつただけでは。もう日常生活の中にですね、私どもの信心が段々豊かに大きくなっていく稽古の材料というのがあるから、それに取り組んでいかなければ、ね、迷い信ではいかん、一心と定めておかなければね、そういう事にもなりかねないのですよ。
%3『私は今朝がたお夢を頂いておった。甘木のあの平田さんですね、平田さんが古風な、昔の牢屋ちゃあんなじゃろうと思う。牢屋の中に入れられておんなさる。そして、もう力が強いもんですから、牢の格子戸になって大きな鉄をつかまえて、こうやってから揺さぶりよんなさる。はがゆいと言うて。それで、それを私が見ておって、これは私が牢屋の中から黙って出してあげようかなあ、と思いよるところ。』
%3皆さんもご承知のように大変大きなおかげを受けた方ですよね。所謂大きな信心ですよ、やっぱり。大きなおかげを受けておられます。ところがですね、所謂、非常に、その神様を信ずる力というかね、力が違う。
%3ですから、誰よりもそれだけのおかげが受けられる。百の力を持っておる者より、千も万もの力を持っておれば、千も万ものものがもてれるようなもの。所謂信ずる力が強いわけね、神様を信ずる力が強い。その信ずる力によってそのおかげを受けておられる、ね。ですから、もう皆のちっぽけな信心をみておってもはがゆうしてたまらんのですね、平田さんとしては。信者だけじゃない、もうあんたとこは教会でしょうが、ね、金光様の先生ですよと。その金光様の先生が、そげな考えでおかげ頂くもんですか、と。そげな信心でおかげ頂くもんですか、と。そう言わなければおれないのです。ね、平田さんとしては。自分自身がおかげ受けておられるんですから。
%3そこで、例えば教会回りをされて、なら信者だけではない、教会長先生達にでも、ね、「あなたんとこは何十年の信心になるですか」「もう三十年にもなります」「五十年にもなります」。「それでいて貴方、こげなボロのたあお広前に住んでから、貴方は神様に対して相済まんと思わんですか、こういう生き生きとした神様を頂きながら、こういう働きを頂かれる神様を頂きながら、三十年経っても、五十年経っても信者が十人か二十人しかおらんごたあことでどうするですか」と言うて言わなければおられんのですよ。ね、それこそ歯ぎしりが出るようにあろうと思う、ご自身が。おかげ受けておられるですから。
%3だもんですから、それを言われると、発奮しておかげを頂く人もありゃ、先生もあるんですけれども、ね。信者の分際で教会になんとか、先生方にどうか、といったような非難がやっぱり轟々としておるような事があるわけなんです。それで、「平田さん、平田さん」と言いよったもを、平田さんを閉め出しにかかっておるという教会やら先生やらが、まああると仮定いたしますか、いわば平田さんの場というものを狭めてしまったわけです。あれだけの力を持った人をです、よう活用しっきらんのです。
%3なら来てから、信者の前で先生が、もし悪口言われるなら、「うちの先生がおかげ頂きらっしゃらん筈じゃ」と信者から思われたら、自分が軽う見られるもんだから、平田さんに来てもらっちゃ具合が悪いといったような教会も、まああると仮定いたしましょう、ね。だもんですから、「平田さん、平田さん」と言いよったものが、平田さんに来てもらっちゃ、かえっておかげ落とすといったような事を言うて、平田さんを閉め出しにかかるという事がです、狭いところに、平田さんの出られる場というものを無くしていきよる。やはり牢屋の中に入れておるようなもの。惜しい。
%3それで、私がですね、それを見てから、これは平田さんを出してやるのは私じゃなあというような事を考えよるわけです。そこで、なら平田さんの方としても考えならなければならない。なるほど大きな信心だからこそあれだけの大きなおかげを受けておるけれども、これにもうひとつ大きな信心が伴わなければならない。それはどういうことかというと、ね。神を信ずるあまり、神様を信じて疑わない。絶対信の信心があれだけの平田さんを築かれた。いわば信ずる力だけを持って強引に押し進めていかれる。まあいうならば蛮勇とでも申しましょうかね。
%U%3昔の豪傑の中に、頭はあんまり良くなかっても、非常に力が強いという偉い大将がおりましたねえ。戦えば勝つ、攻めれば勝つ、そういう力を持っておる。ところがですね、政治力を持たない。というような人が、力は強いけれどもそういう人がある。人を治める和というものを持たない。
%U%3まあ平田さんの場合はですね、それの方が少し勝っておる。神様を信ずる力の強いことは誰よりも強いけれども、ね。「信心はおかげのあるもなきも我が心」というところ、ね。我の心、我が心でおかげを受けておられる。また次には「一心に願えおかげは和賀心にあり」と仰る和らぎ賀こぶ心、ね。その「わが心」にも二つがある。和らぎ賀こぶ心をもっておかげが集まってくるという信心。神様を信じて疑わないという、その信ずる力がおかげを集める信心。二つある。そのどちらか一方的に、例えば平田さんの場合なんか強いのです。
%U%3ですから、あれにです、いよいよ和らぎ賀こぶ心、これはないかということではないですよ。それは和らぎ賀こぶ心もあろうけれども、片一方のほうに少しかたよっておる。強引というですかね。そういう神様を信ずる力の方が平行してない。和らぎ賀こぶ心と、いわゆる和賀心と我が心が平行してない。私は今朝のお夢からです、そういうような事ではなかろうかと思うた。ですからね、その二つの心が自分の心に納まるというのですから、心がもう五十なら、五十のものがこれに入ってくるだけに、大きな心を頂かなければならんという事が分かりますよね。
%Uお互いの心の中にですね、そういう和賀心と我が心が育っていきよるかどうか。いわば文武両道と申しますね。それでこそ立派なやはり大将だ、名将と言われる人は文武両道に秀でている。戦う力は持っておっても、治める力を持たない。これではやはり本当のことではない。そこにね、教祖の神様のご信心を頂いておるとです、その両方を兼ね備え、また両方のことを教祖様は教えておられますですね。
秋永先生の例を以て言ったんですけれども、これなんかは自分で自分の心をおかしよる。これが我が心を犯すとはこういう事だと。自分に確信ができない。次に度胸ができよる。「ままよ」というどん胆ができよる。久富さんのお話の方から感じるものは、自分の言わば豊かな心、和賀心の、ね、和らぎ賀こぶ心の不足をです、自分で実感しよる。自分に心の豊かさがないばっかりに、市役所に電話をかけたり、行ったりしよる自分が恥ずかしいと。いや神様にあいすまんと、ね。自分は神様をこんなに疑いよる。これはでけんのじゃなかろうか、おかげ頂っきらんとじゃなかそろうか。もうこれが自分の心を犯しよるんだと分からしてもらう時に、次の瞬間にはです、どん腹がすわりよる。いわゆる神様を信ずる力というものが、そういうふうにして育っていきよる。
そして、「ままよ」というどん腹を据えさせて頂いたところにです、ちゃんと時間に間に合うようにお繰り合わせ頂いた。ああ成程この生き方でいきゃあおかげが頂けれるという、いわゆる信ずる力、ね。神様を信ずる力がでけていきよる。片一方には自分の心の乏しさ、自分の心の貧しさを感じて、こげなことじゃあほんのおかげを受けられんぞ。と同時に神様相済みませんというような信心で、自分の心がいよいよ和賀心を求めて、和らぎ賀こぶ心を求めていきよる。そういう二つのものがです、ね、同時に育っていかなければいけない。それでいて私は段々大きな信心を願っておる者の、これがね、日常茶飯事の中に、そういう事柄をふんまえての信心の稽古。そういう精進がなされずにね、まあ例えば、それは市役所に遅かけんで電話かけたり、集金に行ったりすることを当たりまえんごたる考え方では、絶対信心は育たんです。
たとえば、それが不安で不安でたまらん、はあ今日はおかげ頂っきらんじゃろうか、と言うて自分の心を犯し続けているようではね、おかげを、よし受けてもです、ね。お取次ぎの働きによっておかげを受けるだろうけれども、それではいつまでも神様を確信できれる、信じて疑わないという力は生まれない。犯しっきりでは。
大きな信心と言えば他にも色々な亀とか見ればいつも頂きますように、大海のような信心というようなことが言われますけれども。まあ今日は私は正義さんと秋永先生の二つのね、これはお互いの日常生活の中にある事なんですよ、ね。我が心と和賀心が、自分の心の中に納まっていくようなおかげ。そういう稽古が出けて初めて信心がね、小さい信心から大きな信心へ段々大きく育っていくという事は、そういう事だ、ね。それには、どちらの場合でも、秋永先生の場合でも、久富さんの場合でも、我が心、じゃない。この信心「迷い信心ではいかぬ、一心と定めい」というものが二人の信心の中にあるから、そういう結論が出てくるわけです。いつのばあいでも。そういう答えが出てくる、ね。そういう時に、たとえば迷い信心をしておったらです、ね。いわばあれ頼り、これ頼りになつて来たり、または、このくらいの事はもう当たりまえんごたあ思う。
例えば、市役所なら市役所に、まあだ金は私んとは入っとらんが、どげんなったじゃろうかと言うて、電話どんかけるという事は当たり前のように思う。自己反省がなされない。自分の心の貧しさなんか悟ろうともしない。けども一心と定めておる、そこから信心を頂こうとしておる、私はそういう姿勢がね、そういう事に当たった時に、そういうおかげが頂けるんだと思うのですよ、ね。
%3大きな信心、大きな信心には迷いが起こらない。ま、平田さんの例を、私は今朝の夢の中から頂いたんですけれども、あれだけの、例えば、千も万もという程にですね、神様を信じて疑わない、あのいわば、信じて疑わないのがです、沢山の人を前にして、それこそ、あのお説教台を叩きながら、そういうことではどうしておかげ頂けるか! これだけ有難い神様を頂きながら、そげなことでどうするか! 何十年たった教会がこんなことでどうするか! と言わなければおられない、私は平田さんの信心を思う。だから、あれ程しの信ずる力がです、あれ程しにです、和らぎ賀こぶ心ですね。もういつでも和らいで賀こんでおられる心というものが、あれにもう一つ揃うたら、たいした平田さんのご信心というものが立派なことになってくるだろう。そしてそのじぶんの場というものを狭められるような事のない、牢屋に入れられるようなことのない、牢屋の中でです、それこそ、歯ぎしりかんでです、その牢は打ち破ろうとしておる…(途中切れ)。